どうして僕はにゃるらのアンチになったのか【たらい回し人生相談】
【たらい回し人生相談】〜ヤバいやつがもっとヤバいやつに訊く〜 連載第14回
【評論文】
評論『失敗した父性からの脱出』
文:ミスター発達
自分でも動機がわからないままに行動した経験はないだろうか?
なぜこんなことをしているのか、自分でも疑問に思いつつ行動し、その結果が形として目の前に立ち現れてくる段になって初めて「ああ、自分はこれを望んでいたんだな」「自分はこのために行動していたんだな」と思うような瞬間のことである。
自分にとって「彼の文章」との出会いはまさにそういう事件だった。
筆者にとって、この「たらい回し人生相談」の企画は必ずしも理想の仕事ではなかった。糊口をしのぐための仕事であった。世の多くの仕事と同じく、不満もあれば面倒もあり、割に合わないと常に思わせるものだった。後のほうなど自暴自棄に近い気持ちすらあった。
しかしようやく分かった。私は彼の文章に出会うために仕事をしていたのだ。彼をたらい回しにしてくれたにゃるら氏には全幅の感謝をしている。ようやく泥と砂の中から輝く石を見つけた。その石はまだ磨かれていない。でもそれが宝石であることはわかる。彼は物書きとして重要な資質を持っている。
それは視座だ。ひとりの個人としての世界へのまなざし、己の心の動きに向ける自身へのまなざしだ。それはある種の自己矛盾だ。愚直なまでの素直さと、皮肉でこの世に一矢報いようとする冷笑の同居だ。そして、それを人と共有しようとする思いだ。
彼は自身の社会不適合について書いている。新聞配達と雨の中の事故について書いている。デイケアの作業で感じた虚しさについて書いている。そんな日々の中で抱く羨望について、不満について、違和感について書いている。
奇しくも文中に「共産主義的な政治空間」という言葉が出てくる。そのイメージを引いて言うなら、むしろ、私にはこれこそが現代のプロレタリア文学であるように思えてならない。これまで無視されてきた声が、いまここにあるのだから。
無論、プロレタリアなどという語は一部の分野を除いて死語となって久しい。それもそのはずだ。本来「プロレタリア(prōlētārii)」という語は「自分の子供(prōlēs)以外の財産をもたない層」を意味する。現在の貧困階級はその子供すら持てないのだから! つまり、もはやプロレタリア以下なのである。
さて、私の希望により、今回はイラストの代わりにフランシスコ・デ・ゴヤ 「我が子を喰らうサトゥルヌス」を掲載してもらった。もちろん「含み」がある。読者諸氏には「絵解き」にお付き合いいただければと思う。この絵そのものはご存知の方も多いだろう。だが神話的な背景までご存知だろうか。彼はなぜ子を喰い、その後どうなるのか。
サトゥルヌスはギリシア神話のクロノスに対応する。これは主神ゼウスの父親である。ギリシア神話において、クロノスは自らの父神ウラノスを去勢し、追放した。父親の権力を奪ったクロノスは、自らも同じように息子に権力を奪われるという予言を受けて、我が子を恐れるようになった。予言の成就を恐れたクロノスは、子供が生まれるたびに我が子を飲みこんでいくことになる。だから絵の中の彼はどこか怯えた顔をしているのだ。
これはまさに失敗した父性の姿である。自身の生存のために我が子を犠牲にせんとする姿は、親としての役割の放棄であり、次の世代を育てることの放棄である。この物語に現代日本の置かれた姿を重ねてみることはたやすいだろう。人々は子供たちを物理的に喰らいはしないまでも、暗黙のうちに子供たちは飲みこまれている。
しかしクロノスの圧政は永遠には続かない。末子であるゼウスだけは飲まれることを逃れるからだ。子ゼウスは密かに育ち、帰還し、父親の恐れた予言通りにクロノスを打ち倒すことになる。ゼウスの兄弟たちがのちに吐き出されるという「再誕」をしたことから、末子のゼウスは長子として主神となる。
現代の追放者の中にも、未来のゼウスがいるかもしれない。